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届かない約束 ②

last update Last Updated: 2025-03-10 13:31:15

 村の広場に足を踏み入れたリノアの目に、不意に小さな物が飛び込んできた。それはシオンの形見だった。広場の端に立つ古い木の根元に、ひっそりと置かれた小さな笛。素朴な木彫りの装飾が施されている。シオンの手作りの笛だ。誰かがそこに供えたのだろう。シオンは幾つも笛を作っていた。

 リノアは思わず足を止め、笛を凝視した。胸が締め付けられるような痛みが波のように押し寄せる。

 リノアにとってシオンは兄のような存在だった。血は繋がっていなかったが、幼い日々を共に過ごし、母が姿を消してからも、いつもそばにいてくれた唯一の人だった。その優しさと力強さが、リノアの小さな世界を支えていた。

 だが、それも今は失われた。つい先日、シオンは突然の事故で命を落としたのだ。悲しみと喪失感が、まるで深い霧のようにリノアの心を覆い尽くしている。

 村人たちは「森での落石に巻き込まれた」と口々に言う。 

 リノアもそう信じていた。最初のうちは……

 リノアはそっと笛を手に取り、その滑らかな木の感触を指先で確かめた。冷たい木の表面が、どこか彼のぬくもりをまだ宿しているように思える。

 シオンが亡くなったなんて、まだ実感として理解することはできない。

 シオンがこの笛を彫り上げた日を鮮明に覚えている。彼は笑みを浮かべながら、ふざけた調子で言ったのだ。 

「リノア、これを吹けば、どんな遠くにいても僕はすぐに駆け付けるよ」 

 リノアは笛を胸に抱き、そっと目を閉じた。心に広がるのは冷たく重い孤独。もうシオンはこの世にいない。笛を吹いても、彼の姿も声も戻ってくることはないのだ。

 シオンを失った今、リノアは本当の意味で天涯孤独の身になったのだと実感した。 

「リノア、おはよう」

 柔らかな声に反応し振り返ると、そこにエレナの姿があった。

 エレナはシオンの恋人、村の薬師見習いでもある。少し年上の彼女は、穏やかな瞳と落ち着いた雰囲気が印象的だが、その内面には芯の強さが宿っているのを、リノアは知っていた。

「おはよう、エレナ」 

 リノアは笛をそっと元の場所に戻し、微笑みを返した。その微笑みがぎこちないことにエレナは気づいたようだったが、彼女は何も言わずに寄り添うように隣に立った。

「今日も森へ行くの?」 

「うん。もちろん」

「気をつけてね。最近、森が落ち着かない感じがするから」

 エレナの声には心配の色が滲んでいたが、それを押し隠すように落ち着き払った雰囲気がある。その慎重さと包容力がシオンを惹きつけたのだろう。

 森の異変にエレナも気づいていたのか。

 風の流れが緩く、木々のざわめきには奇妙なリズムが混じり、鳥たちの鳴き声もどこか不安げに聞こえた。すべてが微妙に、けれど確かに、いつもとは異なる。

 シオンの死以来、自然が何かを訴えているように思えてならない。だが、それが何を意味するのか、リノアには分からなかった。

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  • 水鏡の星詠   フェルミナ・アーク ⑨

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  • 水鏡の星詠   フェルミナ・アーク ⑧

     霧の残響がまだ空中に揺れている。 空中で冷気に縫い留められている影を見て、リノアとエレナは息を吐いた。「危なかったー」 リノアの安堵の声が張りつめていた空気をふっと和らげた。 リノアは膝をついてその場に座り込むと、両手をついて深く呼吸を整えた。緊張がほどけていくのを感じる。「ねえ、リノア。どうやったの? あれだけ冷気を放ったのに周囲は何ともないなんて……。普通なら私たちも巻き込まれて凍っているんじゃない?」 エレナが肩の力を抜き、ぽつりと口を開いた。 リノアは視線を逸らさず、凍りついた空間の中心──氷の檻に囚われた影をじっと見つめた。「凍らせたのは温度じゃないの。影の輪郭」 リノアは氷の余韻を見つめたまま、言葉を落とすように語った。「動きが速くて不規則だったから、影の位置が定まらなかった。だから、あいつの動きの形に集中したの。残像とか、軌道とか──何度か繰り返された流れを絵のように想像して」 リノアは指先を軽く空に描いてみせた。「その流れを一瞬でも捉えられたら、そこを氷で縫い留めることができる。実体がなくても通る道は封じられるから。言ってみればイメージかな」 エレナは目を瞬かせた。理解が追いつかないというよりも、信じがたい、という反応だ。「全てじゃなく、凍らせたいものだけを……か。それ真似できる人いないと思うよ」 エレナは苦笑しながら頭をかいた。 その目には少しだけ尊敬と焦りが滲んでいる。「今回は封じることができたけど、いつも上手く行くとは限らない……」 リノアは口元にわずかな笑みを浮かべていたが、それをすぐに消して険しい表情へと戻した。 その時 パキン──と乾いた音が静寂を破った。 二人が同時に振り返る。 氷の檻の中心、影を縫い留めていた結晶の一角に蜘蛛の巣のような亀裂が走っていた。 エレナが瞬時に身を低くし、リノアもそれに続いた。「エレナ、今の音……」 氷が割れる音の前、確かに聞こえた。何かが空気を裂く音──「何か飛んできたよね」 エレナが囁いた。「うん。森の奥から……」 リノアの言葉が終わる前に、バキンッと乾いた破裂音が響き、氷が鋭く裂けた。先ほどよりも大きな音だ。抑えきれない圧力が内側から結晶を軋ませている。──壊れる! リノアが腰の袋から凍結の晶核を引き抜いた。 その表面に指が触れた瞬間、

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